諦めから出発する。
お風呂の栓を閉めるのがめちゃくちゃ苦手です。
道を把握するのがめちゃくちゃ苦手です。
もはや、苦手というよりく出来ない、レベル。
私は、自分の苦手なことや出来ないことを頑張る努力を、放棄しました。
逆に、得意なこと、出来ることだけに集中しています。
自分がやらなくても、どこかで誰かがやってくれる、と信じています。
苦手なこと、出来ないことはその人に手伝ってもらう代わりに、
私が出来ることをやればいいのです。
例えば、人の話を聞くのは案外苦ではありません。
それから、簡単な絵を描いて喜んでもらうのも、なかなか楽しいものです。
出来ないことで頭が支配されていると、出来ることから遠ざかってしまいます。
それは、勿体無いことだな、と思うのです。
ADHDでも、アスペでも、そうでなくても、どんな人にも得手不得手があるものです。
もっと具体的な話をすると、実は現在就職活動をしているのですが、
退屈なESを書くのに、苦痛を伴います。
片手に収まる企業しか、エントリーできませんでした。
その代わり、エントリーできた会社は、本当に入りたい会社です。
将来やりたい仕事をやるために、今は集中して取り組めています。
私は、決まりきった作業をすることが苦手です。
それから、たくさんのものを好きになったり、嫌いになったり出来ない性質です。
けれど、新しいことに取り組むのは得意です。
本当に興味のあるものは、本当に好きになれるし、本当に嫌いにもなれます。
描きたいキャラクターやお話が頭の中にどんどん出てきたので、漫画の道具をそろえました。
なにかが生まれてなにかが淘汰されていくが、淘汰されるほうが悪い。
こんばんは。
近所の駅が再開発され、新しいお店がたくさん出来ました。
例えばオシャレな本屋があります、パン屋も、カフェも、スーパーも、雑貨屋も。
近所の駅が再開発され、昔からあった本屋が潰れました。
前からあるスーパーに行ったら、店員さんが物凄く暇そうに、いろんな商品に半額のシールを貼っていました。
私は半額の商品が大好きです。
半額のチーズケーキを買って、お家に帰って食べて、泣きました。
しかしこんなことはしょっちゅう起こることで、今まで私もなにかを蹴落としてここまで生きているので、どうでもいいと思う。
デジタルについてよく考えている。
だって、なにがデジタルなのか私はよく分からないのに、世の中ではデジタルはすごい、ということになっている。
私がよく分かってないものが世の中ですごいってことになっているので、負けた気持ちになる。
けどデジタルって0と1の集合なんでしょ、さっきググったらそんなようなことが書いてあったよ。
0と1しかないって、やばくない?5億のほうが大きいのに5億ないんでしょ(笑)
そういうようなことを友人に行ったら
「じゃあお前は二度とiPodで音楽を聴くな」
と言われたので素直に
「はいそうです」
なんて言う訳が無い。
なんで?だってiPodはすごく便利だよ。
いつでも音楽が聴けるんだよ、すごいでしょ、私の好きなバンドの曲がいつでも聴けるんだよ。
このバンドの音がすごくいいんです、ほら聴いてみてください、なんかアナログな感じがするでしょ、パキッとしすぎなくて、だってこれアナログ録音だからさ・・・・・・。
このブログはデジタルで出来ています。
私は昔から、みんなが当たり前に使っていることばの意味が分からない。
みんなが普通にいう、「ストレスが溜まる」という現象も、分からない。
私はいつストレスを溜めているのか、どこに溜めているのか、全然気付かないあいだにそれが溜まっているのだとしたら、なんかちょっとイヤだ。
でも、みんなが溜めているものを溜めていないのも、それはそれでイヤだ。
預ストレス通帳(ゴロが悪い)のようなものがあれば、便利そう。
知識が足りない知識が足りない
知識が乏しい知識が乏しい
なにかについて詳しくなりたい
なにかについて詳しくなりたい
と
唱えながら
自転車に乗りました。
ADHDについて検索してたどり着いた方へ
アクセス解析を見たところ、そういった検索ワードが目立つので。
もう言うまでもないことかもしれませんが、ADHDも自閉症スペクトラムもギフテッドも、障害ではありません。
発達障害という名前も定型発達という発達障害からの呼称も、違和感があるので変えて欲しいですね。
社会のしくみで躓いてしまっているだけです。
発達障害自体は、個性ですらないと思います。
ただの特徴です。
相対的にちょっと変わってる、ぐらいのものです。
個性が無い人はいません。
その人に備わっている、変わらないものは、全部個性だと思います。
ネガティブな記述がこのブログでは多いかもしれませんが、実際にはとても幸せに生きています。
普通の人と同じように落ち込んだりしたときに、たまたま書きたくなるだけです。
本当にわかりあえる友人もいます。
かといって今まで書いたことが嘘というわけではなく、やっぱり失敗をして他の人比べてしまうことがたくさんあるのですが・・・・・・。
私のいいところをいっぱい知ってくれる人もたくさんいます。
このあいだも、友人の似顔絵を描いたら喜んでもらえました。
スキャナーが欲しいなと思う。
少数派vs多数派の構図を意識しているのは少数派だけ。
こんばんは。もうこの卑屈なブログを更新することはないと思っていましたが、SAN値がピンチなので、やはり誰かに共感してほしいです。
先日、二日連続で都心に出る機会がありました。
1日目に筆箱をなくしました。
5本以上のボールペンと、漫画を描く用のミリペンしか入っていませんでしたが。
悲しいです。
2日目にはなにも失くさなかったのでよかったのですが
道で財布を落して拾ってもらったり
カフェに書類を置き忘れて店員さんが追いかけてきたりして
自己肯定感が物凄く下がりました。
実はもう一つホームページを持っていて、アクセス解析をつけてみたのですが
訪問者なんてどうせゼロ人だろ・・・・・・と思っていたのに
ゼロじゃなかったです。
監視されてる感が高まり、歩き方が一旦壊れて、また再構築する羽目になりました。
少数の人としか仲良くなれない。
noriakiの曲を聴きながら「アイツら(多数派)はFAKE」と言っている。
しかし、その多数派によって生かされているのも事実で、頭が上がらないよ・・・・・・。
最近物凄く劣等感が高まっているのですが、それと同時に自信もついてきています。
こんなに劣っているのに生かされているのはかなりのラッキーで、きっと神様に愛されているからです。
役立たずなのに愛されているなんて最高の状態じゃないでしょうか。
私が普通の人が出来ることを出来ずにヘラヘラしている中、普通の人たちは物凄くたくさんのことをこなしています。
どう考えても対等に生きていてはいいわけがないのですが、生かされているということを、誇りに思っています。
世界が100人の村で
99人のアスペと
1人の健常者だったら
そいつは異常者
だと思っていたのですが、
健常者が健常者たる所以は、人に合わせて生きていくことが出来るからで
きっとアスペの空気を読み取って、対処して生きていけるでしょう、何の疑問も無く。
それか、アスペ同士の橋渡しでも出来るかもしれません、そしたらその人は物凄く優秀な人と思われるでしょうね。
大人に透明にされて以来大人を憎んでいて、2年程前からやっと許容できるようになったと思っていたのですが、いまだ消えぬ憎しみを自覚すると餃子ライスに半チャーハンをつけるという暴挙に出てしまいます。もう二度とこのブログを更新することがないといいです。誰かに聞いて欲しいのに誰にも聞いて欲しくない。目標のために自分を曲げることなんて簡単で、今までずっとそれが出来ていたのに、何かが歪んでしまって上手く出来なくなりました。もう限界だといつも思う。耐えられないし、許して欲しい。死は救いだと思う。そして贅沢だとも思う。生きていることも贅沢だと思う。八方ふさがりだ。
windowsのメモ帳に書きなぐっていればいいことを、ブログにしてしまう。だからきっと顕示欲がどこかであるんでしょう。惨めだ。不幸自慢なんて絶対にしたくない。散々無理して馬鹿になったのに。知人が私に抱いているイメージと私のなかの私のイメージがあまりにも乖離しすぎてしまった、ここ最近は正直人前にでて許されるクオリティを維持できていない。パフォーマンスが低すぎる。はやく健康になりたい。やればできることを今までやってきた、それが急に出来なくなるのは、甘えだと思うし、甘えだという発言は物凄く理解に乏しいとも思う。でもそれが自分に向けられているなら、いいんじゃないだろうか。甘えだ。
作ること あとは スキとキライについて
ストラテラの処方箋をもらったのですが面倒でまだ薬をGETしていません。
ていうかこの面倒という気持ちがコントロールできていないと思っていたのですが、ただの怠けなのかもしれません。
けど、同じ事柄にたいして周りの人より面倒さをより多く感じている気がします。
たとえば、靴をきちんと履くことがあまりにも面倒でなかなか出来ません
出さなくてはいけない書類を期日中に出すのもとっても面倒です、書類に書いてある文字を読むのがとっても面倒です。
周りの人はどんなに面倒だと思っていてもちゃんとこなしていたりするのでエライなァと思います。
きちんと、とか、ちゃんと、とかが苦手ですね でも怠け者にしかみえない 実際そうかもしれない そうじゃなかったらどうなのか、どうしようもない。
とにかくまずはストラテラをもらいにいかないと何もはじまりません、この面倒だと思う気持ちとすこしカンケーがあるのですが自転車のカギをまたなくしてしまいました・・・・・・今年に入って何回カギを変えたかわかりません。
本題に入ります、「作ること」
作ることが昔からスキなのか・・・・・・スキじゃない気もしますが・・・・・・
とにかく、何かを作っていることが多いです。
絵を描いたり曲を作ったり、ホームページを何個も作ったり、今ブログを書いているのも文を作っているという感じ。
小さいころはなんで図工よりも体育が好きな子がいるのか、とても理解できなかった。図工が嫌いという子はほとんどいなかったと思う、スポーツは(ボールを投げたり走ったりするのがあんまり得意じゃないからっていうのもあるけど)全然おもしろいと思わない。
成長と共にだんだん気づいたのは、別に作らないでも構わない人がいること。
というか、なんで作るのか?っていうことを考えるべきで、なぜ作らないの?というのはどうでもいい。もし私が「なんでスポーツしないの?」って聞かれたら、はあ、と思います。キョーミないからだよっんなこた聞くな馬鹿。
なんで作るのか・・・・・・何かを作っている人はたくさんいますけど人によって違うだろうからわからない。
作って、発表して、いろんな人の感想を聞いて・・・・・・いろんな段階がある、どこの段階で満足するのかが結構違うと思うし。
中学生くらいまでは、誰かに見て欲しいという気持ちが強かったと思います。新聞か何かの投書だったと思うけど、「誰にも見せない絵を描く」という人がいて、なんで??と思っていました。自己顕示欲なんでしょうか?なんていうか、作品を通じて誰かに何かを言いたかった、そして分かって欲しかったなあ。
最近はあんまりそうでもないかもしれない。もちろん作って発表はするときもある、けど誰かに見せるためではなく作るために作っているときがある。絵曲文章それ以外の思いつく何でも・・・・・・そういうのを後で見返したりもあまりしない、作ったらそこで何かが終わった感じで満足します。
作ることがスキなのかよくわからない、ただとにかく、何かを作ることで自分の内に溜まったエネルギーを放出しているんだろうと最近気づきました。何もしないでエネルギーを貯め続けたらどうなるか、空気を入れすぎた風船みたいに破裂するんじゃないかって・・・・・・んなこたないけどねっ。
スキとかキライとかじゃあなくて、生きていくために作っていくことが欠かせないんです。何もしないでいることがとにかく難しい。
本能で作っています。誰かに作品として見てもらえなくても、作り終わらなくても、作るという行為が食べたり寝たりすることと同じグループに入ってしまっています。
他の人がどうなのかとても知りたい気分です。
スキとかキライっていう言葉をすでに何回か使っていますが、実はスキキライについてあんまりよくわかっていない。
「好きの反対は無関心」って有名な言葉ですね。じゃあ嫌いの反対は・・・・・・?って思ってしまいます。
今の結論(これは知人からヒントを得たのですが)、スキとキライはあんまり区別しない。興味があるかないかだけで十分っ
スキとキライはプラスとマイナスの関係とは違う。同じものにたいして好きという気持ち、嫌いという気持ち、どっちも持っていて相殺しあうものではないんじゃないかっていうことです。めちゃめちゃ簡単なことな気がする、けど今まで考えないと分かりませんでした。
ある人に対して「あなたの明るくて一緒にいると楽しいところが好きだけど、口が軽くって何でもべらべら人にウワサするところはちょっと嫌いっ」って思ったり・・・・・・あるかな。そういういろんな「好き」「嫌い」を、たとえば簡単に数値化してみて「好き」100「嫌い」30とかなったとき、100-30=70だから「好き」は70になりましたっとはならない、とりあえず私の中では。好きだけど嫌い嫌いだけど好きっていう感じで。けどこの考えはどうだろう、なんかちょっと微妙に話がずれている気もするからどうかな。
で、次に思うことはスキとキライを分けないで考える。さっきいったように一つの対象に好きなところ嫌いなところがあったりする。それをいちいちココが好きでココが嫌いでだから結局はスキキライあえていうなら・・・・・・とか考えない。
キョーミあるかないかでいいんじゃないかって、スキとキライの総合値がキョーミ値って感じ。100スキ30キライなら130キョーミ・・・ってこんな単純ではもちろんありませんが。
キョーミもてるものが私はあんまりなくて、キョーミあることはとても集中できる、そのことについてずっとずっと考えていられる
キョーミの持てるものを探して見つけたい・・・・・・特に、興味の持てる人を。友達がほしいなあ